ケンチクカというバカモノ、もとい、イキモノ、なぜか「豊か」という言葉が好きである。

 曰く、「豊かな空間」「豊かな街並み」「豊かな生活」といった感じ。

 つまりは、豊かな何かが作りたいのである。

 昨今は「豊か」と言うと、広い家だとか、最新の家電製品だとか、高級車を想像するような気がするが、

 ケンチクカの言う「豊か」とは、なんの関係もない。

 

 江戸時代末期から明治時代初期にかけて日本を訪れた欧米人の記録が多々残されている。

 その中に「日本は、これほど貧しい国なのに、なんて豊かなんだ!」というのがある。

 これを書いたヒトが、日本の何を見て感じた事なのかは不明だが、経済大国と言われる今の日本を見て、

 「アノ豊カナ心ハ、ドコヘイッタノデスカ?」と欧米人に言われるのが現在。

 

 では貧しくないと、豊かになることは出来ないのかというと、そんな事はない。

 精神的豊かさと物質的豊かさには相関関係は無く、

 金持ちでも庶民でも豊かでありえることを体現していたのが江戸時代の日本。

 つまりは心の持ちよう、ってことだ。

 

 たとえば、地中海の沿岸にある古い街にもコンビニはある。

 その店が日本と違うのは看板の大きさ。

 周辺と同じ石造りの建物に、コンビニであることが解るのに十分な大きさの看板が付いている。

 日本みたいに「ここやぞ〜!!!」と 大声で怒鳴っているようなバカでかい看板を付けたりしていない。

 便利さと豊かさのバランスを大切にしているのである。

 それに比べて、今の日本は、京都の古い街並みの中ですら、コンビニにはバカデカ看板を付ける。

 

 ケンチクカは、もう一度たわいもない日常を楽しむ「豊かな日本」を取り戻したいのだ。

 そして、その日常の中心は「住まい」。

 だから「豊かな住宅」が作りたいと努力するのである。

 何故って、子供達が育つ場所は、精神的にも豊かな方が良いじゃありませんか。

 

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