少々、時事ネタがらみで申し訳ないのだが・・・。

 最近、様々なところで「市民感覚」というヤツがハバを効かせている。市民感覚の代表が裁判員制度。

 アメリカの陪審員制度は、目的が明確で素直にナルホド!と思えるのだが、日本の裁判員制度は解らない。

 それでなくても人間が人間を裁くこと自体に無理があるものだからこそ、

 法文と専門家による客観的判断が必須だと思うのだが、

 それを市民、つまりは司法の素人が「有罪(guilty)・有罪でない(not guilty)」の判断をするのみならず、

 量刑まで決めるってのは、イカガナモノカ。

 

 裁判は「有罪・無罪」の判断をするところではない。「無罪」と「有罪でない」は、全く意味が違うのだが、

 たとえばアメリカでは小学校でそういった裁判制度の原理を教育している。

 顧みて日本、皆さんご存じの通り、日本の小学校では教えていない。

 そんなことすら教えられていない我々一般市民が、

 「裁く」ってことをするのが、正当な裁判のあり方なのだろうか?と思うワケだ。

 量刑が市民感情に左右されたら、法治国家としてはヤバくない?

 とまあ、ここまでは素人のタワゴト。

 

 タワゴトだけで終わってしまうのも不味いので、ここで本題。

 この「市民感覚で判断」が、あらゆるジャンルに広がった日にゃあ、

 プロの存在意義などどこにあるのやら、と少々危惧ってのが本ネタ。

 現状が既に、良い家を造るのではなく、売れる家を作る主義、

 つまりは売れた後はシッタコッチャナイ主義がハビコっている事に不満タラタラなのに、

 市民感覚が最大の力を持ったら、良い家など出来るはずがない。

 

 大体、大企業がアンケートなんかで掴んだ市民感覚でモノを作るのは、後で文句を言われない為、

 つまり「だって貴方がそうしてくれと言ったじゃないか」って言う為でもあるのだ。

 と、こう言うと、またケンチクカは客の言うことを聞かん!と誤解をされないか不安になるのだが、

 紙数が尽きたので、その点は前回のコラムを参照して頂きたい。

 

 

 追記

 アメリカで死刑が認められている州の話だが、死刑判決だけは陪審員が決めるらしいです。

 不勉強でした。すみません・・・

 ちなみに、陪審員制度は、理念は理解しますが、完璧な制度だと思っている訳でもありません。

 

要望通り
豊か