相変わらずの私見であるが、建築家というイキモノ、少々原理主義なところがある。

 原理主義という言葉が適切かどうかは悩むところだが、要は建て主のお金を使ってモノを造るのだから、

 それがちゃんと意味のあるモノ、価値のあるものになるかどうか、を大切にするって事。

 これを、一例をとって説明したいと思う。

 

 オーソドックスな和室には、「床の間」というものがある。

 伝統的な和風の家を建てている大工さんに言わせると、

 「床の間が無い家などクリープの入っていないコーヒーのようなもの」。

 この「座敷には床の間」という意識を専門的には「様式」と言うが、

 この意識に対し、建築家というのは、「床の間とはなんぞや?」という事を考えてしまう。

 何をするスペースなのか、それが現代(もしくは住まい手)の生活の中で活きるのか、といったことを。

 

 「床の間」とは、「室礼(しつらえ)」の為の空間。

 室礼とは、お客さんをオモテナシする心。

 季節に合わせた掛け軸を掛けて楽しんで貰う、イベントに合わせた飾り物を置くなどして、

 お客さんに楽しく過ごして貰う。

 お客さんが来るから・・・玄関を掃除する、トイレのタオルを新しいモノに替える、という心と同じ事である。

 つまり、お客さんに対する接待者の心が現れるのが床の間であって、

 家宝の掛け軸を一年中掛けっぱなしにして自慢する為の無粋な空間ではない。

 

 そういう場所である、という事を忘れてしまった(オモテナシの仕方が変わった)現代の、

 一般的な生活をする場所としての家を造る時に、

 単なる使いにくい収納場所になった床の間のナレノハテをクサるほど見てきた建築家としては、

 床の間について考え込んでしまうのだ。

 

 「様式」を無意味というつもりはさらさら無いが、活きた使われ方をして初めて素晴らしいものになるのも事実。

 大切なのは「室礼る(=設える)」というオモテナシの心であり、その為に空間が使われること。

 だから、造るのならば現代の生活の中で活きる「使える室礼の場所」を造りませんか、となる。

 活きた空間を作るために、本来の目的(=原理)を大切にしたい、これが建築家の心。

 

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